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ダグラス・ハーディングへのインタヴュー2000年
聞き手:Jan Kersshchot
(彼は、ワトキンズ出版から出版された、This Is It「まさにこれである」の著者ISBN 1 84293 093 1)
Jan Kersschot(以下JK):あなたが、自分のヴィジョンを分かち合ってから、もう60年がたちますね。最初、それはどうやって始まったのですか?
Douglas Harding(以下DH):私が31歳のときに、いわゆる「ヒマラヤ体験」があって、やっとわかったのです。私はその体験を、On Having No Head(邦訳「心眼を得る」現在絶版)に描写しました。でも、山々の中で「それを見る」代わりに、それはどこでも起こりえたことでしょう。それは山とは無関係なのです。
JK:「ヒマラヤ体験」というと何か、「頂上体験」のように一部の読者には聞こえるかもしれませんが、それは本当にそんなふうに特別ではなかったわけですね?
DH:はい、それはまったく特別なものではなく、むしろ自然な何かです。あなたがこれを見るとき、これはあらゆるものと結びついている何かです。それは明白なことの開示であり、特別なことの達成ではありません。
JK:それは「頂上体験」のようなものじゃなくて、むしろ「谷底体験」ですね。
DH:まったくその通りです。それは神秘体験ではありません。
JK:でも多くの人たちがそれについてたくさんの経験をしています。彼らは、目覚めることと至福の違いを知りません。
DH:まったくおっしゃるとおりです。「これ」を見ることを避ける一つの方法が、これを「頂上体験」に投影してしまうことです。
JK:あなたが最初に「これ」を60年前に見て以来、それは長年の間、成長してきたと、今日あなたはおっしゃいましたが、それはどういう意味ですか?
DH:そうですね、あなたは、注意して、成長するものと成長しないものを区別する必要があります。突然の局面と段階的な局面があり、突然の局面は、一度あなたが「これ」を見たら、まさにそれです。段階的局面とは、私が「継続性」と呼ぶものの成長と信頼の成長のことです。最初のこと――自分とは何かを見ることは、常に同じですが、二番目のほうは、段階的なことです。
JK:もう少し説明していただけませんか?
DH:このヴィジョンは、ずっと同じで、同じで、同じです。なぜでしょうか? なぜなら、それは単純で、明晰です。明白なことは、明白で、明白なのです。それは時々まだらであったり、半分明晰だったりということはありません。それは常に同じです。経験の中で、変化するのは、2つのことです。一つは、ヴィジョンが続くことです。最初のうちは、起きたり、起きなかったりして、[自分のほうを指差しながら]、あなたはこれに戻る必要があります。二番のことは、信頼の問題です。最初あなたは「これ」を信頼しません。あなたは自分の人生を生きるのに、「これ」を信頼しません。しかし、人はこの明晰さを信頼することを学びます。ですから、しだいに継続性と信頼が成長してゆくのです。これは非常にゆっくりとしたものですが、最後には、すべて自然になります。
JK:ということは、人がそれを練習すればするほど、それは自然になり、その結果、私たちは、実験を必要としなくなるということですね。
DH:まさにその通りです! 人がそれを練習するにつれて――それは外見から現実へ戻ることで、その旅をすることで、ますます自然に起こるようになります。
JK:それは自動的プロセスのようなものになるのでしょうか?
DH:はい、そうです。ただ、「自動的」という言葉が、適切かどうかは、私にはわかりませんが。私が思うに、あなたがそれを練習することで、それは自然になるのです。自分が決して去ったことがない場所へ、ただ戻ることで。少なくともそれが、私の印象です。人は、自分が何から見ているのか、見ているその源泉に戻るのです。
JK:私は、指差し実験をすることなく、そこにあなたの顔とあなたがお茶を飲んでいるのを見ることができ、そして「ここに」自分の明晰さを見ることができます。それは常にそこにあり、同じように、この「空間」はここにあります。
DH:あなたは私の顔のための空間であり、あなたはそのための受容能力です。
JK:常に。
DH:はい、常に。事実、これを見るのに、実験は必要ありません。
JK:この「見ること」は、宗教とどのように関係していますか?
DH:私たちが宗教について語るとき、物事の本質とそれぞれの宗教の一般的形態とを区別しなければいけません。ご存知のように、私は世界の偉大な宗教の比較について書き、教えてきました。私が発見したことによれば、それぞれの偉大な宗教の本質は、一つの単純な主張、つまり、あらゆる生き物の中心に、すべての存在の中の唯一の気づきがあるという主張、なのです。ですから、人の宗教的背景が何であれ、あなたの宗教的信念が何であれ、あなたが自分の宗教の本質に発見するのは、ワークショップと私の本の中で話題にしている、まさに同じ気づきなのです。
JK:ということは、人がどんな信念の元で育てられても、キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンズー教など、何であれ、それは合うとことですね。
DH:私はキリスト教の中に育ちました。私にとっては、キリスト教は、その根底と本質に、非常に特別な何かをもっています。つまり、それは、世界の背後にあるパワーは、自ら与える愛であると、言っているのです。そのことは、私にとっては、啓示なのです。そして、それこそ、私たちが今日、実験で発見したことなのです。私たちが紙袋に入るとき、あなたは自分の前にすわっている自分の友人のために消えるのです。自分がそのように創られている、お互いに愛し合うように広く開かれて創られていることを見ること、それが事のすべてです。でもそれは、私の感情とも感覚とも関係ありません。私はロマンティックな愛情や感傷的愛情を話題にしているのではありません。
JK:それはもっと非個人的な愛ですね?
DH:はい、そうです。それは、相手のために消えることで、本当に相手のために死ぬことです。今この瞬間、ダグラスは、ジャンのために消えたことに、私は気づきました。[自分のほうを指さして]、私は「ここ」に何ももっていず、向こうに「ジャン」と呼ばれている男性の外見をもっています。それが起こるのは、私がいい人だからではなく、ただ私がそのように創られているからです。
JK:それは、顔を交換するようなことですね。あなたは私の顔をもち、私はあなたの顔をもつ。
DH:「顔を交換する」。私はそう呼んでいます。
JK:そして、時間のない背景はいつもそこにあるわけですね。
DH:はい。
JK:私があなたの実験を発見する前、私はまったく同じことを言っているたくさんの本を読みました。禅仏教、老荘思想、ベータンダ哲学など。それらは、すべて無条件の愛、他者に対して死ぬこと、復活、そして、私たちの本質は、ただ一つの意識であるという事実を語っています。でも、私が事の本質を理解したのは、指差し実験と紙袋の実験をやってからだと思います。そのときは、ほんの一瞬の「裸の存在」でしたが、私はすぐに自分が非常に重要な何かを見たとわかったのです。私は自分が生涯探し求めていた何かの一瞥を与えられたのです。それは至福状態ではなく、むしろ私が人生で見た最も単純なものでした。とはいえ、それは至福の味わいがしましたけど。
DH:あなたの言うことは、理解できます。
JK:この「見ること」により深く入っていったあと変わったことは、もしそんなふうに表現できれば、ですが、自分でも驚くほど、自分が以前読んでいた同じ本が、明白で単純になったことに気づいたのです。それを発見したことは、本当に啓示でした。私は、あらゆる伝統の、あらゆる多様な先生の方法の中に、すべての事の本質を見、同じ真実、同じ気づきを認識しました。私はまた、たくさんの無知、そしていわゆる横道にも気づきました。そして、私は、「ヴィジョン」を与えられたおかげで、事の本質へまっすぐに入っていけます。ですから、あなたの実験は、以前は言葉や観念で常に覆い隠された何かについての実用的方法を、私に与えてくださったのです。
DH:はい、これは実に実用的なのです。
JK:いったんこれを「見て」しまえば、人はまったく違った方法で、同じ真理を認識し始めます。でも、言葉は、決してこの「ただ一つの目覚め」を描写することができず、ただそれを指摘することができるだけです。
DH:あなたが言ったことは、まったくその通りです。本当の霊的人生とそれについてすべてを知ることには、無限の距離があります。人は、宗教や哲学の教授となることもできるでしょうし、「汝の隣人を、自分自身と同じように愛する」ことについての規則もすべて知るでしょうが、でも、人がそれを「見ない」かぎり、それは単に観念にすぎません。人はすべての経典を知っているかもしれませんが、それでも、その核心からは、無限に離れています。
JK:それは、「それである」ことについてあり、それについて知ることではないのです。
DH:まったくそのとおりです。
JK:この「見ること」を発見することは、「特別である」代わりに、「普通である」ことになりつつあるのでしょうか?
DH:このことは、あなたを特別ではなく、普通にします。あなたは自分を特別だとは感じません。私が思うに、このことは非常に重要なことです。なぜなら、この「見ること」は、導師や弟子ということとは、何の関係もないからです。私はそんなふうに振舞うことはできないのです。なぜかといえば、私はそんなふうに感じないからです。あなたが、自分が本当は何かを、本当に見るとき、自分が「何もないもの」であるのを見るわけですから、自分が誰かよりもすぐれているということはないのです。あなたがそれを祝福し、それを友人たちと分かち合いたいと願う事実、それはあなたの特権です。しかし、だからといって、他の人たちがそこに到達していない、というわけではないのです。人々は、ある意味ではみな悟っています。彼らはただ、自分自身の悟りに無知なだけです。そういうわけですから、あなたは優越感を感じることはできません。このヴィジョンは、非常に民主的です。
JK:それは、一人の人が他の人より霊的であるとか、よりよいということとは、無関係なのですね。
DH:「悟り」という言葉は、汚い言葉です。なぜなら、それは誤用されてきたからです。私は、それをワークショップの中では使いません。「私が悟っているけど、あなたは暗闇にいる」という言い方は、役に立ちません。それでは、うまくいきません。
JK:あなたのメッセージは、まったく違いますね。
DH:私、「これは明白である。これは分かち合うことができる」と言います。私の話は、分かち合うことについてです。それは福音です。それは優越することについて、
ではないのです。もし誰かが興味をもてば……
JK:あなたは誰でも歓迎し、分かち合うわけですね。
DH:そのとおりです。自分とは何かを自分自身で発見するように、私は人々を招待します。
JK:それなのに、なぜいまだ、このことについては混乱があるのでしょうか? なぜいまだ、これほど多くの教師がいて、彼らの信者たちは、自分の導師(グル)は特別な力をもっているというふりをしているのでしょうか? なぜ人々は、調査者ではなく、信者になりたがるのでしょうか?
DH:ジャン、そうですね、おわかりのように、私たちは「これ」に対して、巨大な抵抗があります。なぜでしょうか? なぜなら、それは、死だからです。そのあとすぐに復活が続くのですが、人々は「これ」を怖れます。私たちにはみなこの抵抗があります――ダグラスも含めて。そして、この抵抗が取る一つの形が、霊的探求を想像することで、距離を生み出すことです。人々はいわゆる悟った導師(グル)を見に行き、「彼は、向こうに完全に到達したが、私はまだ道半ばである。彼がこの旅を助けてくれるだろう」とか、「私は求道者です」と言います。しかし、彼らは、同時に、「私は自分が発見者にならないことを確信している」と、ひそかに自分自身に言っていることに気づきません。求道者は、発見者になることを怖れます。求道者であるかぎり、何かの道に従っているかぎり、あなたは到着する危険なく――事実、致命的な危険です――あなたは、霊的旅をしているというあらゆる報酬を受け取ることができます。なぜなら、到着は、死で、そして復活です。人々は単にこれを見ないだけです。
JK:人々が実験中に、「一つの意識」を見ることができないのは、はやりこの同じ怖れのせいでしょうか?
DH:そのとおりです。多くの人は、自分にはそれが「見えない」と思うのですが、でも私が思うに、人はそれを拒絶する前に、まずそれを見なければならないのです。私たちは、ほんの一瞬見て、無意識にそれをすぐに拒絶します。これを見ないことは、不可能なのです。
JK:でもいまだに非常に多くの人たちが、自分は実験の要点を見逃したようだと不満を言います。
DH:人々は、これを避ける非常に多くの口実をもっています。彼らは、「自分にはそれを理解できない」とか、「もっとずっと素晴らしい何かを期待していたのに」とか、「自分にはその要点が見えない」とか言います。あるいは、彼らは眠りこけてしまいます。それはすべてこの「何もないもの」に対する同じ忌避であり、同じ怖れなのです。消えることへの同じ怖れです。
JK:私たちは、抵抗という現象を受け入れなければなりませんね。電流があまりに強力なときには、私が思うには、神経系統を故障させるよりは、安全ヒューズを使うほうがいいのです。たぶん、この忌避は、自己防衛の機能の一つなのです。人々は、まだ準備ができていないときに、自己防衛を使います。
DH:キャサリンと私は世界中をまわってワークショップをしていますが、本当に見る人の割合は非常に少ないということを知っています。ですが、年月がたつと、その数は増えていき、時期がくれば、種が芽を出します。
JK:これを分かち合うことにはまた、喜びもあると思います。
DH:はい、非常にそうです。絶対にそうです。
JK:これは、私たちが誰かと分かち合うことができる、最も美しいものの一つですね?
DH:それは、最も価値あるものです。
JK:にもかかわらず、多くの人たちは「それを得ない」わけです。
DH:これに対して、誰が準備ができているのかは、謎です。私たちは、これに対して、誰が準備ができていて、誰が準備ができていないのかを知りません。今日ここベルギーのワークショップで、80人の人々がいましたが、その中で、たぶん3、4、5人程度の人が、それを本当に得て、彼らの人生は非常に変わるでしょう。
JK:以前より、多くの人々がこの方法に心を開いているとお考えですか?
DH:そうですね、ダグラスのおかげではなく、ダグラスにもかかわらず、これは歴史上の霊的躍進のように私には思えるのです。なぜなら、この実験は、「うわさ」を実際に「見て経験すること」に変えるからです。これは革命的なことです。過去5千年もの間、誰も、ただここを見て[自分のほうを指差す]、注意の方向を180度回転させることを主張しなかったのは、驚くべきことです。
JK:それはすべての理論を実践するということです。
DH:これはゾクチェンの教えもピッタリと言っていることです――「裸の意識で見る」それは明白で、自然で、あらゆる人がこれをもっています。
JK:そして、単純です。
DH:そして、分かち合うことができます。そして、また完全に無視されています。私は、これが今、表面に浮上する時期が来たと思います。おわかりのように、過去においては、ほんの少数の人だけしか、この至福のヴィジョンに到達しませんでした。たくさんの人々が求道の道にいましたが、わずかな人しか、神との絶対的融合を実現しませんでした。しかし、今ではもっと多くの人たちがそれに到達しています。
JK:でもあなたは、これが、少数の幸福な者たちのためのものだ、とは言いませんよね。
DH:ある意味では、あなたはただ幼子のようになります。それは、イエス・キリストも言ったことです。「幼子のようにならなければ、天の王国には決して入れないないだろう」と。
JK:あなたのワークショップや本に親しんでいない人たちに、あなたのメッセージを要約するとすれば、どんなものになるでしょうか?
DH:私はそれを数語で要約することができます――「私は、自分がそう見える外見とは違います」。私は自分が、そう見える外見とは正反対です。私の外見はあなたが得るもので、私は自分の本当の姿を得ます。そして、私が何から見ているかというその本質は、私が鏡の中に見るものとは、違います。私が鏡を見るとき、それは私が見ているものですが、私が何「から」見ているかといえば、それは空間です。あらゆる点で完全に異なるのです。私は固い塊として見えますが、でもここでは、私は透明です。再び、完全なる違いです。私は2つの目から見ているように見えますが、ここには、たった一つの目しかありません。
JK:このヴィジョンは、とても単純で、同時にとても奥深いのです。それは逆説です。それは実際に何も変えることなく、あらゆることを変えつつあります。「これ」を見るために、人は何も変える必要はありません。
DH:奥深いことは、単純なのです。もしそれが単純でなければ、真実ではありえません。でも単純なものは、困難です。
JK:人々は、複雑な理論を好みますね。
DH:人類は単純さを嫌います。
JK:それを複雑にすることは、「それ」を避ける一つの方法です。
DH:あなたがすることは、物事に目覚めることであって、出来事を変えることではありません。あなたはただ、それらに目覚めるのです。それは私達が生きている世界を操作することに関することではありません。
JK:このヴィジョンは、人々が物事をありのままに受け入れることに役立ち、そのせいで人々は物事を変えることに心惹かれないということは、本当でしょうか?
DH:ここに一つの逆説があります。あなたのおっしゃるとおりです。キャサリンと私は、出かけていって、世界をユートピア(理想郷)に変えたいとは言いません。ユートピアは起こらないのです。なぜなら、それは不可能だからです。私たちの主な関心は、世界を変えることではなく、これを分かち合うこと、源泉からの世界のヴィジョンを分かち合うことです。それは世界を変えることを目的とはしていませんが、でもそれは、今まで試行された最も深い変化です。
JK:それは、本当に起こりうる最も深い変化ですね。
DH:仏陀が悟ったとき、それは必然的にあらゆる生きとし生ける物の悟りを意味したのです。あらゆる生き物の悟りを巻き込むことなしに、仏陀は、悟ることができませでした。なぜなら、ジャンとかダグラスではなく、「ただ一つのもの」だけが、悟ることできるからです。
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